落日・4






劉備との不本意極まる別れから早三年。
その年、興平元年は、趙雲にとって最悪の年だった。

六月も半ばを過ぎたある朝のこと。
いつものように県城に出仕した趙雲は、いつになく城内に人の出入りが多いことに気づき、何事かと中庭をのぞき込む。

(一体なんなのだ、これは)

品物を手に行き来する幾人もの商人達。
色とりどりの反物の束、上質な造りの陶器、使用人達の手によって丁寧に包装されていく大小の漆器…何処かへの献上品か何かだろうか?
不思議に思い、公孫讃の執務室へと足を運んだ。
公孫讃は卓に向かってなにやら書状をしたためている。

「失礼致します」
「おお趙雲」
「主公、中庭…あの品々は一体なんでございましょう? 商人達が次から次に運び込んでくるようですが…」
「ああ、あれか」

きめの細かい便箋の上にサラサラ筆を走らせながら、フフフと笑う公孫讃。

「お祝いだよ。祝いの品だ」
「祝い…何かめでたい事でもあったのですか?」
「そりゃめでたいよ、なんせ結婚式だもん」
「結婚? ご親戚のですか」
「いんや。けどまぁ気持ち的には自分の弟が結婚したようなもんかなぁ……フフ、あいつもようやく所帯持ちか、フフフフフ」

何がそんなに可笑しいのか、公孫讃はかすかに肩を震わせて含み笑いをし続ける。
趙雲はそんな主を不審に思って問いかけた。

「どなたです、どなたが結婚なさるのです」
「誰だと思う? そなたもよく知っている御仁だよ」

(……まさか、)

無性に嫌な予感がする。
少年ののどがゴクンと鳴った。

「…もしや、劉…」
「ピンポォーン!! そーだよ、まさに劉さんとこの玄徳ちゃんが結婚するって話だよォ!」

アッハッハと大笑いする公孫讃の目の前で、直立不動で息絶える趙雲。
が、数秒後には無事に息をふきかえし、酸欠状態の金魚のようにパクパク口を動かしていた。

「ピンポンて……結婚て………結婚???」
「そう、玄徳もついに妻帯者だよ! いやなんつーか私気にしてたんだよね、あいつがずっと独身でいたらどうしようって! 責任感じてたからさぁ…ホント良かった、マジホッとした!」

妻帯者…結婚…玄徳様が?
なんなんだ
一体なんの話だよ

「責任て…なんで? なんで主公が責任を?」
「なんでって……まあ今だから笑い話で流せるけどさ、実は玄徳の尻の純潔奪っちゃったの俺なんだよね☆ あいつってば成人してからも異性と交際してる気配がほとんど無かったからさ、生粋の男色家になっちゃってたらどうしようってずっと心配してたのよ、アハハハハ」

アハハじゃねえよ
ちっとも面白かねえよ
趙雲はショックでもう一回死んだ。
次に息を吹き返した時は、公孫讃が目の前に便箋と筆とを差し出して「そなたも一筆お祝い書いて送ってやりな、玄徳きっと喜ぶぞ」とニコニコしているとこだった。

「…誰なんです」
「へ?」
「誰と結婚するんです、劉備殿」
「ああ、結婚相手? 鴻芙蓉って人。玄徳と地元が一緒らしいよ」
「地元が一緒…」
「なんにせよめでたい話じゃん☆ そういう訳で、ホレ、そなたもひとことお祝い書いたげな」

震える手で便箋と筆とを受け取った。
ブルブルしながら必死の思いで書き綴る―――たった一行、「ご結婚おめでとうございます 趙雲」と。

「なんだこりゃ、筆跡ブレまくりやんけ。どうする、書き直しするか?」
「いえ…けっこうです、それでいいです」

お邪魔しましたと公孫讃に一礼し、ゾンビのような足取りで執務室を後にする。
劉備へと贈られる結婚祝いの品々に埋め尽くされた中庭を抜け、城内を宛てもなくフラフラさまよった。

(結婚…玄徳様が結婚…)

…別に不思議な話じゃないよ
あれほどの大人物が三十過ぎまで独身だったって事の方がむしろ驚くべきことじゃん
性格良いしな
顔も可愛いし老若男女にモテまくりだし
そうだ、そうだよ
祝福しなきゃ
おめでとうって祝わなきゃ

(…………ねーよ)

十八歳の少年の内側に、ドス黒く澱んだものが生まれつつあった。
驚愕、悲嘆、嫉妬、嫌悪、それら醜い負の感情がドロドロいっしょくたに混ざり、若い心を蝕んでいく。
自分でも驚くほどに思考が歪みきっていた。

(鴻芙蓉? 誰だ、一体どんなアバズレだ? 玄徳様をたぶらかしやがって、なにが、なにが結婚だ)

会ったこともない女に対し、ひたすらに嫉妬の念をつのらせる。
誰も見ていないからいいようなものの、今の趙雲のその面は、平素の美貌が見る影もなく醜くひきつってしまっていた。

「………」

ふらつきながら人気の無い武器庫へと入り込み、後ろ手でガタンと閂を下ろす。
薄暗い庫内。
小窓からかすかに差し込む淡い光。
鉄の扉にもたれるようにしゃがみ込んだ。

(………会いたいな)

劉備に会いたい。
顔が見たい。
声が聞きたい。
白い手をとり語り合いたい。
柔らかな肌身に己の体を重ねたい。
心と体と、趙雲のすべてが劉備の熱を欲していた。
しかし、ふいに、理不尽極まる恨みつらみが胸の奥から湧き上がる。

(地元が一緒ってことは若い頃からの知り合いか………なんだよ、なんで今になって結婚とかいう話になんだよ、するならするでさっさとしときゃ良かったじゃんよ)

劉備と鴻芙蓉の波乱に満ちた恋の顛末など知る由もない趙雲。
的外れな被害妄想が始まっていた。
最初から結婚してたんなら俺もこんなにつらくはなかった、
俺をほったらかしといて自分は結婚しちゃうのか、
家庭を持って、新しい人生に踏み出して、
そんで俺のことなんかキレイさっぱり忘れるわけだ―――少年は身勝手な怒りを募らせていく。一方的な悪感情だ。心が芯から腐っていくかのようである。

(もうイヤだ。冗談じゃない。劉玄徳、俺は貴方に捧げたんだぞ、体も心もなにもかもすべて捧げているんだぞ、なのに…)

納得出来ない。
許せない。
憎い。
こんな現実認められるか?

(無理だね。嫌だ。認められない。誰がするかよ祝福なんて)

趙雲の“悲劇”は劉備に童貞を捧げてしまったこと、そこから生じた歪んだ独占欲にある。
悲しい男の勘違い。
自分勝手な思い込み。
すべては錯覚なのである。
「自分は劉備にすべてを捧げた、だから劉備も自分に対して身も心も誠実であるべきだ」と本気で思い込んでしまった。
純粋さは時に狂気を孕んだ剣となる。
その剣が切り裂くのは趙雲自身の心であり、愛する劉備の心であり、ひいてはまだ見ぬ劉備の妻を害しかねないものである。

(ちくしょう。ふざけんな。腐れアマ、アバズレ、メス豚、豚、豚、豚!)

己のどこにこんな汚い言葉と感情とが潜んでいたというのだろう。
堕ちていくのがわかる。
自身の醸す毒に侵され、低俗な下衆野郎へと堕ちていくのが痛い位によくわかる。

これも俺か
趙子龍、これも俺なのか
見たことも会ったこともない女をこうも憎めるものなのか
こんな腐ったドブ川みたいに濁った気持ち、生まれて初めて味わうぞ!

(最低だな! なんもかも全部消えちまえ! けどやっぱり好きだよ劉玄徳、貴方のことが大好きだ、あきらめるとか無理だから!)

壁に立てかけてあった鉄杖を握りしめ、石造りの床をやたらめったら叩きつけていく。
暗い庫内にガンガン響く打撃音。
嫉妬に狂ってラリった脳に反響し、その錯乱に拍車がかかる。


十八歳の青い春。
散々だった。
妬みと嫉みと愛憎の渦の中だった。
趙雲は生きて荒ぶる屍だった。







嵐のごとく過ぎ去った十代の日々。
そして建安五年二月――――その日、堂々たる体躯を誇る二十四歳の美丈夫・趙雲は、求め続けたかの人と夢にまで見た再会を果たす。
愛する人のその頬が、いつかのように熱い涙に濡れていた。
趙雲と劉備は互いに強く抱き合った。
離ればなれの九年間をその一瞬に凝縮し、二人は主従の契りを交わす。
その全身に劉備の仁の光を受けて、歓喜に浸る若き龍。
だが、それは長きに渡る愛憎の日々の幕開けでもあった。

「子龍は会うのは初めてになるな」

愛妻の手をとり、趙雲へと引き合わす劉備。
六年もの間、顔も知らずに憎み続けたその女は、仁君の妻にふさわしい心清らかな美女だった。
主君の妻・鴻芙蓉に拝礼しつつ、趙雲は自己の内側、その奥底に、黒く醜い情念の胎動をハッキリと感じ取る。


長坂の戦いが八年後に迫った冬の日の出来事だった。







続く




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