暴想という名の暴想
 2020.11.19 Thu 22:52


私の同期は団塊卒業のおかげで人数が多いのですが、有能で個性的なのと地味なのと両極端で天秤が釣り合ってる感じです。
ちなみに私は同期の中では珍しい中間あたりです。
年齢は上位にがっつり入ってるので、目立たず生きられて心地よいです。

フロムロストベルトを買った勢いで、先日同時進行で書いていた小ネタを完成させました。
勢いなので色々と許してください。


<連弾>


まだカルデアで誰もがマスター候補生だった頃。

「今回も秘密裏に倉庫区画の一角を開けておきました。」
「いつもすみません。」
「構いません。環境を整えれば済む話であれば協力できます。」
「くっそ忙しいのにいっつもほんっとにすんまっせん。」

女性スタッフとDチームの不良女とのやりとりを偶然見かけたカドックは、そそくさと倉庫区画に忍び込む不良女の背について行った。

「(げ。)」

素行不良女は誰も使っていない埃臭い一角で、念入りに人気がないことを確認(物理)してからは躊躇なく、ジャージを脱ぎ捨てた。
怠惰に食っちゃ寝しているはずの身体は、男の目から見てもどこもかしこもなかなかに仕上がっていた。
おかげで、見たくもない不良女の着替えを、うっかり一部始終を見届けてしまったではないか。

「(和服とか、着れそうにもないようなふりをしていたのか。)」

手際よく道着に着替え、男らしく正座し、目を閉じ、たっぷり2曲分。
静かな一角故に、はっきりと女の耳から漏れ聞こえる爆音のジャンルはハードコアパンクだ。
なかなかいい趣味をしているじゃないかと、毛嫌いしていないで今度会話を試みてみようかと思ったとき、女の目が開いた。

「ひ。」

カドックは自分の顔の横を通り過ぎ、後ろの壁に突き刺さった刃物を恐る恐る振り返った。
細身のナイフだ。
弁解するために顔を前に戻せば、そこに女の姿はなく、振り返れば壁に刺さっていたナイフもなく、元からかもしれないくぼみだけが残っていた。



あの女がDチームに居座り続けた真意は定かではない。
クリプターの定例会中、カドックは鼻でため息を吐いた。
魔術もろくに使えないくせに数多のサーヴァントを従える一般人だけでも手に余すのに、魔力のインプットが聖杯級の世間知らずが太陽の騎士を召喚したことに加え、最後まで実力を計り知れなかったが間違いなく戦闘センスが戦国時代の脳筋が冷静沈着な手綱を召喚したことは厄介だ。
良くも悪くも魔術師でしかない馬を皮切りに、カルデアの維持と異聞帯の破壊を可能とする将らを討てれば目的達成は早いが、その馬をマスターと崇め死なないように弾幕を張られては、迂闊に手が出せない。
しかもその馬は今もまだ大人しく、戦場で目覚ましい活躍をすることはなく、軽率な言動に反して小賢しく頭を働かせては輝かしいサーヴァントを隠れ蓑に、実力を秘匿している。
思わせぶりなだけで実力などないと断定できないのは、あれでも女の着替えを覗き見たやましさから誰にも話せずにいるあの日の幻のような出来事のせいだ。
くそ、あの言動のすべてはこうなることを見越しての策略だったのかと、思わずにはいられない。
それこそあの女の思う壺だと思うと、ああ、苛々する。
人をおちょくることにかけては、間違いなくロード級の天才だ。
何をトチ狂ったのかあの女に召喚されてしまった、清廉潔白を精神性に掲げるサーヴァントに心底同情する。

「どうした?カドック。」
「なんでもない。」

カドックは気持ちを切り替えがてら、あんな女と会話を成立させていた化け物級の聖人の詮索を通信ごと遮った。
もしカドックがあのとき不良女に問いかけていたら、彼女はこう答えた。

「頭ガッチガチの魔術師君にいいこと教えてあげる。限定された項目において一定の基準で格付けしての分類、つまり独断と偏見と差別でクラス分けしたら訓練も友情も合理的かつ効率的だけど、世間一般的には個性的な奴らと喜びや苦労を分かち合う方が人間成長できるらしいわよ。ってことで、いっちょ遊びに来てみるぅ?」

その答えを聞いていたら定例会の出席者が異なる未来があったかもしれないと思い至ることもなく、決別が修復されることもない。



今日のお稽古はお休みだけど、人だったときの名残で体調が万全ではない沖田先生に見守られながら、斎藤先生とはたきと箒でフェンシングごっこをしていた和子は、盛大にのけ反った。

「ぶえっきしぇい!ッだあコン、」
「マスター。」
「チキショウ!お小言を賜った後で大変恐縮だけど、くしゃみは中途半端な方が尾を引く。一発で済ませたい所存。」
「それにしてももう少し控えてください。」
「はーい。」

おつゆがかからないところまで飛び退いていた斎藤が一気に間合いを詰めたので、アルジュナはそれ以上のお小言を控えた。
後でスタッフの誰かに見つかれば怒られるであろう廊下に、油性ペンで書かれたよれよれのソードラインから踏み込めるのは互いに一歩、横幅は和子には廊下一杯、斎藤には肩幅しか与えられていない。
突きの名手で手足の長い斎藤がはたきを使ってくれているおかげで、二人の遊びはなかなか白熱しているので迂闊に水を差せない。
体のどこかに先が当たれば1点、今回は和子がとった。

「現代っ子は面白いチャンバラを思いつくものですね。今度は私と遊んで欲しいものです。」

沖田は、教え子の生き生きとした姿に、可愛らしい目元を綻ばせた。
幕末にその名を轟かせた剣の天才を疼かせるほどとはいえ、アーチャーとして顕現したアルジュナの戦士としての目も衰えていないようだ。
和子は剣の筋が大変よろしい。
アルジュナはそもそもサーヴァントに必要がない慣性的な瞬きすら忘れ、微笑み合う斎藤と和子がソードラインまで戻り構え直すのを見守った。

「マスター立夏の話ですと、お嬢はとても怠惰なマスター候補生だったようですね。」
「今は怠惰なマスターです。」
「少し前までは、でしょう。私、ああいう人をたくさん見てきました。」

アルジュナははたきと箒の壮絶な攻守に目を凝らしながら、隣の存在に意識を向けた。
隣の存在、沖田は新選組隊士であり一番隊隊長だ。
凶刃に病魔、死が昼夜問わず常に付き纏う生涯を僅差で病魔が勝って閉じることになった。
死は煙草の煙のようで、嗜む分には害は少ないが、肺まで吸い込めば死に至る。
そんな彼女が見てきたああいう人とは、死を熱量に変えて戦える部下か、死を消化できずに壊れる部下だ。
和子がどちらに当てはまるか考えるまでもない。
沖田もアルジュナに伝わっている前提で言葉を続ける。

「彼女は魔術師の要素もあるから、覚悟なんて格好いいものではないでしょう。あなたがいながら、死にたがりのヤケとも思いません。急にどうしたんですか?」
「死ぬなら派手にとは、彼女の口癖です。」
「ははあ、その割に本当の戦闘には消極的と聞いています。」
「本人は断固として認めませんが、彼女曰く化け物級のご友人が歴史に名を残すことなく果てたことを、随分と悲しんでいました。」

沖田は目を凝らし、斎藤に点を取られて悔しそうにしている和子を見た。
5点先取で勝利、4対3で和子が負けている。

「それで死を臆したようにも、凡才の自分の生き方を見失ったようにも見えません。」
「例の事件から目を覚ましたばかりの彼女は、カルデアと共に死ぬつもりだったようですが、予備戦力総出で死守せよと遅滞戦闘命令は最後までなく、少しでも多く残すことを重視した退却命令に従ってくれたと、経営顧問がわざとらしく口を滑らせました。」

苦しそうに胸を押さえる沖田をアルジュナは気遣うが、沖田は親しげな微笑みを和子に向けているので、控えた。

「わかるなあ、彼女の気持ち。剣士として、大きな戦を前に刀を鞘に納めたまま生き残るだなんて、さぞ悔しかっただろうなあ。」
「クシャトリヤの私もその気持ち、わからないでもありませんが、彼女は魔術師です。」
「教え子が聞き分けの良い子で先生は鼻が高いです。」
「そうですね。各マスターが大人しく従っているかどうかは素質や状況によりますが、経営方針に大きな変更はありません。怠惰な生活態度を叱ってばかりですが、沖田先生のようにたまには褒めて差し上げるべきでしょうか。」
「あなたがいてくれるから、彼女は自暴自棄にならずに済んでいるんです。褒められるべきはあなたであって、あの子を褒めるのは私や一ちゃんの役目です。…ふむ。」

そこで話は最初に戻り、どうして今更やる気の片鱗を見せ始めたかだ。

「我慢、できなくなったんでしょうか。」
「覚悟が、できたんでしょうか。」

沖田とアルジュナの会話を小耳にはさみ、斎藤は和子に不敵に笑む。
和子は「む」と口を噤み、鋭い突きを出した。
はたきで顔を掃除されたので、咳払いの後に口の動きだけで斎藤の質問に答えた。

「(幼い頃からずっと、聖杯戦争に参加するなら、ん、んふぅな人と、魔術師ながら一緒に戦えれば素敵だと思ってたの。)」

大それたことを恥じて言い淀む和子に、斎藤が当たり障りのない言葉を選ぶ。

「最近特に剣のお稽古に熱心なのは僕らのせいもあるだろうけど、経営顧問から許可は出てるの?」
「出たのよ、それが!」

和子は負けたにも関わらず、嬉々としてはたきから顔を出して斎藤に満面の笑みを見せた。

「やっといくらでも替えの利く魔術師だって認定されたんです!化け物級の誰かさんが候補生時代にふざけてAチーム入りを上申したりするから、まさか実は秘めたる実力を隠してんじゃないだろうなって、あの名探偵すら疲労の限界のせいでどこかで期待してたんでしょうが、最近になってやっと純然たる脳筋だって信じて貰えたんですよ!」
「それは喜ぶところ?」
「誠と書いてバーサーカーと読む団体に所属している人が何言ってんですか!もちろんでしょう!?」

箒を両手で持って目を輝かせる姿は、先生の贔屓目に可愛らしい魔女っ娘に映るが、話す内容はゴリゴリの脳筋だ。

「いつか実家を月の裏側まで吹っ飛ばすために毎晩お祈りして魔力溜め込んでた宝石もあるし、時計塔で目立たず生きられるくらいの基本的な魔術もたぶんまだできるって、こっそりひっそり“おひとり様でご休憩中”の経営顧問に自己PRしたら、呆れたようにもう他には望まないから好きに個性を磨けって!故に夢はでっかく、魔術を使わずにバッドで実家を月の裏側までサヨナラホームランと定まりました!」

ガバリと、斎藤と沖田に頭を下げた和子は、自分のつま先を見たまま声を張り上げた。

「よろしくお願いします!」
「僕ぁ構わないけどねえ。」
「私も構いませんよ。」
「ありがとうございます!!」

斎藤と沖田はアルジュナを見た。
つまり、化け物級の誰かさんの目は確かで、経営顧問としては奥の手としてとっておきたかったが、今や一般人に毛が生えた程度の魔術師の方が優先順位が爆上がりしたため、危険度が高い任務を前に替えの利く魔術師を斥候として行動させる経営方針をやっと決断したのだ。
超合理主義と自称している名探偵のラリ中の戯言であれば、発言者が今頃後悔していないといいのだがと、アルジュナは真顔の圧を強めた。
ジュナスタの性質は人たらしとは程遠く、実力と求心力なしに、サポートを率いて敵地に乗り込んだとしても、自我の塊である英霊達を纏められるはずもなく、藤丸立夏のためになる情報収集や索敵どころではないだろう。
最優のサーヴァントの贔屓目から見ても、最良のマスターではあるが、経営顧問の期待に応えられる代物、つまりはクリプター級の化け物ではない。
だからこそ稽古と出し惜しみなしの実戦投入で強制的なレベリングが必要なのだろうが、マスターの身の安全と健康を第一に考えるアルジュナが到底許容できるものではない。
そもそも聞いていない、聞かされていない、相談もされなかった。

遊びは終わり、斎藤と沖田はにこやかに手を振って席を外した。
手を振り返した和子は、箒を両手で握りしめ直してアルジュナを見上げた。

「ああ、楽しかった!」
「それは大変よろしいことです。」
「この私が、理由はよくわからないけど、生きたい、生きてるって思えたの。アルジュナのおかげね。」

「ありがとう」と微笑む和子に、アルジュナは苦笑いを返す。

「死にたい、の間違いではなく?」
「死んでたのよ、今までの私は。英霊にもなれないしょうもない地縛霊。」
「写真に積極的に写りたがる自己主張の強い霊ですね。」
「あのとき本当に死んでたらそうなってたかも。でも私にはまだ足があって、人間は死ぬために精一杯生きるもの。違って?」
「違いありません、マスター。」

アルジュナは跪き、和子の右手をとった。
左右対称の蝶の令呪に額をつける。

「最後のときまでこのアルジュナをお傍に。」
「心強いわ、もちろんよ。こちらこそよろしく。」
「であれば。」

ギロリ。
睨み上げられた和子は、アルジュナから発せられた不可視の物理的な圧力にのけ反った。

「今後はどんな小さなことも報連相を密に。よろしいですね?」
「私にプライバシーとか親しき仲にも礼儀とかないのー?」
「プライバシー?何か私に知られると不都合な弱味でも握られたのですか。」
「弱味だらけでさすがの名探偵達も取りこぼさないようにかごを準備するほど把握されてるけど、違いますー。」
「察した上で詰問しています。」
「えー。」

思いっきり逸らされた和子の顔は真っ赤だ。

「ん、んふぅ。」
「はい?」
「だーかーらー、今みたいに名探偵に追い込まれたから、ヤケクソで好きな人に自分を少しでも良く見せたいのは人間の本能だろって叫んだの。笑われたわ。」
「本当に、あなたは凡庸な精神性故に環境に振り回されて極端なことばかりなさる。」
「もちろん相手の言いなりになる気はないわ。私は私のままで格好つけたいの。利害の一致よ。」
「まあ、損得勘定でしか動かないようで、採算度外視甚だしい方があなたらしいか。」
「そーゆーところが好きなんでしょ。」

意趣返しとばかりに和子は不敵に笑ったが、アルジュナは鼻で笑い返した。

「惚れ直すばかりの結果にならないよう、立派な先生方の下で日々精進するように。」
「言ってくれるじゃないの。」
「ではさっそく、マイルームで密に情報共有と洒落込みましょうか。」
「いやー、それはそのー、シミュレーション室の方がよくない?私の事が知りたいなら剣を交えるのが一番だと思うしー。」
「望外の喜びです、マスター。では剣を交えた後、僭越ながら私からも色々とお教えして差し上げましょう。」
「それは私の心をへし折った後、刀までへし折らなければね。」
「それは、…善処します。」

アーチャーのクラスで顕現した自分がどこまで剣の腕を再現できるかわからないが、人間の女性相手に刃こぼれさせてはアルジュナの名が廃る。
胸中でシヴァ神の加護を請い、ピンと姿勢を正した和子の背に続いた。



これは夢だ、カドックは思った。
思い出ではないが、懐かしさを感じる環境で目を開けた。
アナスタシアが殺す前のカルデアだ。
Aチームに与えられた難易度の高い課題の山を前に、お気に入りの曲で奮起しようとしたところ、機器不良で初期化されていた。
天才カドック様などの突飛な設定の気配はなく、現実的に己が身に降りかかりうる不運な展開の進行をひしひしと感じる。
夢くらい好きに見ろよ自分と、沁みついた卑屈さに呆れるしかない。
傷を抉るだけなら早く覚めてくれと思ったが、なかなか強情なので誰にともなく付き合うことにした。
支給品ではないが、成績上位者の特権で携帯を許された白紙化した音楽デバイスを手の平に、男性スタッフに声をかけた。

「Aチーム様のやる気を削ぐわけにもいかないからな。優先度高めのタスクとして預かろう。」
「ありがとう。」
「はあ!?それはないんじゃないの!?ミスター!」
「なんだようっせえな、相棒。」

その存在に全く気付いてなかったカドックは、丸々とした男性スタッフの影から小柄な女性が怒りを露わに飛び出してきて驚いた。
そして引いた。
自分が忌避する存在、Dチームの不良女、奇人変人その名も和子だ。
和子は男性スタッフの胸倉を掴み、その細い腕と小さな手のどこにそんな力があるのか不思議な勢いで揺さぶった。

「私の方が先だったじゃない!」
「相棒、おまえは家の金にものを言わせて持ち込んだデバイスを、バカにものを言わせて水葬しちまったんだ。それもトイレにだ。何より、DチームよりAチームが優先されるのは世界の理だ、違うか?」
「理論は正しいと認めよう!だがしかし、後ろ盾もなく実力だけでAチームにのし上がったカドック様としょぼくても後ろ盾がありながらDチームを謳歌する私のやる気の問題であると主張する!」
「なるほど。カドック・ゼムルプスは音楽がなくてもその気になれば集中できるが、相棒は音楽があっても集中が難しい。課題の難易度は実力に比例するから考慮するに値しないとなると、優先度は俄然相棒の方が上がってくる。」
「だろう?だろう??」

この二人が仲がいいのは知っていたが、一応この会話の当事者であるはずなのに完全に蚊帳の外のカドックは、事の成り行きを見守るしかなかった。
本当に夢ならいい加減にしてくれと思ったところで、男性スタッフが結論を出した。

「仕方ない。手持ちの仕事で急ぎのものは他のスタッフに任せて、俺は相棒の次にカドック・ゼムルプスの音楽デバイスの修理に励もう。」

結局はそうなるのかとカドックはため息を吐きかけたが、そのために吸った息は声を伴って吐き出された。

「しかし、条件がある。Aチーム様を待たせることになる不遜な相棒は、修理期間中カドック・ゼムルプスが課題に集中できるよう協力するように。」
「「はあ!?」」
「どうせ直るまで手伝いも鍛錬もしないでぷらぷらしてるだけだろ。」

思わず不良女と共に異を唱えたが、男性スタッフは肩を竦めた。

「ただでさえ特に相棒の我儘に目をつぶってることで結構睨まれてんだ。これ以上、俺が痩せちまわないように気を遣ってくれてもいいだろ?」
「しょうがないわね。痩せ代はまだまだありそうだけど、同好の士であり最高の相棒の地位を危うくするのは私にとっても相当な痛手だわ。」
「こういうときだけ損得勘定が正常に迅速に働いてくれて嬉しいよ。」
「じゃあ、カドック。さっそく行こっか。」
「はあ。」

断じて返事ではなく、今回こそ溜め息だ。
どうせ夢だ。
この不良女がどこに連れて行くのか興味がないわけでもなく、よく見る機会はなかったが存外小さく華奢な背に続いた。
案内されたのは、倉庫区の端の一室だ。
庶民出のカドックはグランドピアノと認識するだけだが、ここの職員ならこれがサロンサイズのものというところまで初見でわかる。
不良女は埃が積もっていない天板を立て、椅子に浅く座った。
何を弾くのかと思えば、猫ふんじゃっただ。
それなら俺でも弾けるとカドックが声を荒げれば、じゃあ弾いてみなよと椅子を譲られた。
どんと座り、最後の締めまで弾ききってやれば、拍手がもらえた。

「影のある美青年のたどたどしく可愛らしい姿にやる気が勃起した。」
「君、そういうところだぞ。」
「あと5年若ければ取って食ったものを、なぜもっと早くカルデアの門戸を叩かなかったのかが悔やまれる。」
「もういい。」

不良女は立ち上がったカドックを見上げながら、プリマドンナのように優雅に礼をした。

「いいものを見せて貰ったお礼よ。クラシック嫌いのカドックが、課題に集中できるように協力を惜しまないわ。」

次にふざけた態度を取ったら殺す。
夢なのだから、かねてからの夢を実現しても法には触れないだろう。
カドックはあまり期待せずに床に腰を下ろし、課題を広げ始めた。
不良女は再び椅子に浅く座り息を吸って吐き、カドックが肌で感じるほど雰囲気を変えた。

「ベートーヴェンね。和子らしいわ。」

影ながらオフェリアは微笑んだ。
一日に何度も風呂に入る潔癖症でありながら、思い立ったらやり遂げるまで風呂にも入らず、集中し出したら便意はその場で済まし、片付けができず物が溢れたら引っ越しを繰り返した天才音楽家。
彼の作る曲は諸説あるが前衛的とも評され、天才ならいざ知らず凡人一人が弾くには勿体ないほど音域と和音を贅沢に使用した荘厳な曲だ。
後に、ワーグナーにも大きな影響を与えている。
特に、不良女改め和子が選曲した速く起伏が激しい曲調が特徴の月光や悲愴は、初心者に毛が生えた程度でも弾けるものでありながら、聴くものを簡単に魅了する。
そこに情感や技巧が加われば素晴らしいのだが、残念ながら和子は玉の輿活動の全てに体と心が素直に拒否反応を示していたため、好きな曲も満足いくまで練習できなかった。
手慣らしにテンポは全盛期から随分と落としたが、なんとかおおよそ楽譜どおりに弾ききった。
和子の心情も他にも観客がいることも知らずカドックが素直に感心していると、和子は手をグーパーと繰り返した。

「クラシックもなかなかロックでしょ?」
「ああ。あんたが余計な口を開かなければ集中できそうだ。」
「余計な口とは何よー。まあ喋る余裕もないし黙ってあげるけど、誰がいつ持ち込んだか知らない調律微妙なピアノで、入所日に弾いたきりだから、音が飛んでも間違えても眉間の皺を増やさないでね。」
「言い訳は結構だ、劣等生。どうせ庶民の俺には何が正解かわからない。気兼ねなく弾いてくれ。」
「それじゃ、どっちが協力してるのかわからないわね。」

珍しい笑みの和子は、カドックがこれまで見たことがないものだ。
やはりこれは夢だ、だとすれば自分にしてはマシな夢を見るじゃないかと思った。
その後、たぶん音が飛んだり間違えたりしたのだろうが、カドックが気にする事はなく、そろそろ飽きてきた頃かと和子がショパンのエチュードまで披露したところで、カドックの課題と共に夢が終わった。

「へっくしゅん!」
「あらやだ、カドック。風邪かしら。」

くしゃみと共に目を覚ましたカドックは、アナスタシアに慌てて弁解した。

「人をばい菌みたいに見ないでくれ。マイナス100度の状況下でまともな人間はくしゃみの一つくらい出る。」
「うふふ。誰かが噂をしているのかもしれないわね。」
「どうせろくでもないことだろうな。」
「まあ、あまり自分を卑下するものではなくってよ。」
「…そうだな。」

あれは夢だ、どれだけ都合よく望んでも思い出なんかじゃ決してない。
和子は楽しそうにしていたが、一人で弾くには実力不足に修練不足にそもそも不向きで大変そうだったくらいは、教養や他人の心情に鈍いカドックにも察せられる。
一匹狼のカドックと夜会を嫌うアナスタシアは音楽を一人でも十分楽しめるが、おおよそは同好の士と楽しみ、分かち合いを経て、自分の精神を豊かにするものだ。
現実は、何度言ってもライブのたびにシャウトして喉の限界に挑み続けるヴォーカル(立夏)と、すぐアレンジしたがるトリッキーなギタリスト(瑠衣)と、それでも微動だにしない沈着冷静なベース(桐子)と、おっとりと個性的な音達を丸く収めるキーボード(陽菜)と、意外と小気味よく捌いていくドラム(ミスタームニエル)と、無邪気なようで綿密に計画して指揮棒を振り回す指揮者(名探偵)と、挙げ出したらキリがない個性的なメンバーが織りなす、奇天烈バンドのシンバル役としてもうどうにでもしてくれと投げやりに活動しているので、ピアノの前に座る本来の彼女を見つけ連弾してくれる人が現れてくれることを願ってやる余裕ができたくらいには、珍しくいい夢だった。

「ずるいじゃないか!カドック!」

その話が化け物級の天才の耳に入ろうものなら、定例会で液晶邪魔だ退けをマジでやってのけそうなのが恐ろしい夢だったとは、終ぞ知る由はなかった。

 



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