ゆるりと月を見上げる。
不意の、ことだった。

「おーい、旦那。」

顔を戻すと庭先に妙な風貌の男が立っていた。忍装束に緋色の羽織。腰には二つ、面が下がっていた。音もたてず、姿を現すあたりは流石忍と言ったところか。

「いったい、何用で。うちは忍を差し向けられる程派手な商売しちゃいませんが。」
「ああ、いや。別に仕事で邪魔した訳じゃあないんだ。なに、さっき迄余所で働いてたもんでね。喉が乾いていけねぇ。水を一杯、くれやしませんか。」

言葉通り、闇に紛れて見えづらいが、よく見れば男のおもてや面に点々飛んでいるものがある。忍の仕事といえば、密偵や暗殺といったところか。付着しているものを見る限り、穏やかでないことが起きたのは確か。否、起こしたのか。

「…旦那、聞こえてらっしゃる?」

じっと見据えて黙り込んでいたのだから当然か。我に返ると正面で小首を傾げていた。

「やっぱ、コイツが気になりますか。」

男は苦笑いで頬をかく。面で見えていなかったが、その手には刀の柄があった。

「当たり前だな。人切り包丁が傍にあっちゃ、一般人が落ち着いてなんかいられねえわ。」
「まあ、安らぎはしませんがね。今見てたのは、貴方の頬に散った朱の方ですよ。」

つい、と指差すと男は慌てて袖で拭った。

「危ねえ。気付かなかった。もう少しで、主人の前に血塗れのまんまで上がるところだった。助かったよ、旦那。」
「いえ。それより、水でしたね。今取って来ますから、ちょっと腰掛けて待っていて下さい。」
「ああ、頼んます。」

目で縁側を示して奥に向かう。台所で湯呑みをとって裏の井戸で水を汲んでいると、目の端に薄桃色がちらついた。

「先生、どうかされましたか。」

顔を上げると娘が一人、きょとんとしてこちらを伺っていた。

「お小夜さん。」
「こんな時間に珍しいですね。」

言いつつ、井戸の傍まで寄ってくる。

「いえ、ちょっと喉が乾きまして。」
「ふうん。」

沈黙。滑車の回る音だけが谺する。握った綱がやけに重く感じる。漸く上がってきたのを湯呑みに注ごうとして、声がかかった。

「あれ、直接注ぐつもり?」「え。」

言われてみて、はたと気付く。注ぎ口などついていないそれは、水を零してしまうだろう。やってしまった。

「ふふ、おかしな先生。」

鈴の転がるような声が漏れる。

「待ってて、桶を取って来てあげる。」

止める間もなく踵を返し、小夜は家の中に消えた。程なくして、小さな桶を手に小夜が帰ってきた。

「わざわざ済みません。」
「いいのよ。お気になさらず。」

軽く頭を下げて口のついた桶を受け取る。程なく湯呑が満ちて、残りを井戸に戻した。

「助かりましたよ、有難うございます。」

目を見て言えば、小夜はにこやかに笑った。

「じゃあ、お休みなさい。」

挨拶を交わし、家に入るのを見届ける。と、頭上に影が差した。

「おや、可愛いじゃないか。」

枝が揺れ、葉が散ると目の前に先程の男がいた。

「あの娘、旦那のいい人かい?」

さも愉快そうに細められた鳶色とかち合って、思わず息が漏れる。

「待っていてくれと言ったでしょう。」
「つれないねえ。ところで、先生ってのは?」

差し出した水を嬉しそうに受け取って、男は続けた。

「此処は小間物屋だろう。先生だなんて敬称は使わない。旦那、いったい何をしてる方で?」

探るように向けられた視線に刺があるように感じる。

「しがない薬種屋ですよ。裏の長屋でひっそり商っているんですが、薬種屋と医者を混同している人は意外と多いものでして。時々、診ているんです。」

顔を背けて足を進めると、男も付いてきた。

「成る程。それで先生、か。けど、そんな簡単に診れるものなんで?」
「噛った程度ではありますが、多少の知識はありますしね。大きなものは診たことがありませんし。」
「へぇ。凄いですね。」

少し大きく開かれた目が、何だか先程の小夜と被って見えて可笑しくなる。元の縁にまで戻ってきたところで腰を下ろすついでに、弛む口元を隠した。

「大したことじゃありませんよ。先に言った通り、重病人なんかを連れてくる人は居ませんから。」
「…そういうもんですかねえ。」

今一つ納得がいかない様子で水を飲む。ゆっくり上下する喉の向こうに月を見て、はっとした。

「それより貴方、主人に報告でもするんじゃ。こんな所で暇を持て余していていいんですか?」
「…あ。」

男の顔が青ざめる。

「まずい。忘れて、いや、そんな事より時間は…。」
「考えるより行動に移した方が早いんじゃ?」

目に見えて慌てる男が可哀相で声を掛けてやると深く頷いた。

「そりゃそうだ。じゃあ、俺はこれで失礼するよ。有難うな、先生。」

湯呑を押し付け布を鼻まで被せる。くぐもった声で一言残したかと思えば、次の瞬間には居なくなっていた。

「慌ただしい人ですねえ。」
苦笑が漏れる。

―また機会があれば、遊びに来ますよ。

忍が会いに来る機会なんて無い方がいい気がするのだが、何処か抜けている笑い顔を思い出せば、また会ってもいいような気がしてくる。

「さて、彼に家が分かりますかね。」

穏やかな風が髪を揺らした。小さな薬屋に夜の訪問者が来るのはまた少し先の話。






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