今日は厄日なのだろうか。
帰路につきながら考え込む。考えれば、朝からおかしなことばかりだ。
まずは着替え。ハンガーに掛かっていたはずの制服のリボンがなくなっていた。それも、よりにもよって今日は、服装チェックの日だった。確実に掛けたはずだったのに。お陰で、委員長の奴に散々説教を受けた。まったく、佐川は頭が固すぎるのだ。思い出すだけで腹が立つ。
次は3限。数学の宿題プリント。こちらはあったにはあったが、ファイルに挟んでいたにも関わらず、中程まで裂けていた。とてもじゃないが、提出できない。昨日の努力が泡と消えた。
3つ目は昼時。お弁当の箸がなかった。これは割り箸を持っている子が居てどうにかなったのだ。
お母さんの馬鹿っ。
何もこんな日に忘れなくたっていいじゃない。
むくれながら玄関へ足を進めた。そして、靴が下駄箱の上に置かれていたのが最後だった。
はぁ、と無意識に溜め息を吐く。もう今日は最悪だ。どうせ、家に帰っても何かあるのだろう。今度は何だ。階段で転ぶとか、料理中に指を切る等だろうか。もしかしたら、火傷かもしれない。それは嫌だな、と自分の考えを打ち消した。痛い思いはしたくない。
見上げる空は青く澄んで、厳しい日差しが照りつける。まったく、何故災難はこうも重なるのだろう。何かに取り付かれてるのではないか、とさえ思う。でなきゃ、日頃の行いが悪い罰とか…。少しばかり思い当たる節があったので、考えるのはやめ、漸く着いた我が家に入った。
ドアを閉めると、熱気が肩にのしかかる。暑い。
なんだ、お母さん出掛けてるの。
クーラー、期待してたのに。
珍しいことに妹も居らず、人気のない家は熱の塊だった。早く冷房をつけなければ、干からびて死んでしまう。さっさと自室に荷物を投げ込んで、リビングへと駆け込んだ。
西日の差し込む自室に比べ、幾らかましだが暑いことに変わりはない。すぐさまクーラーの電源を入れ、ソファーな身体を投げ出した。程なく冷房がきいてくる。文明の利器は素晴らしい。思わず息が漏れる。
ああ、そういえば、手を洗っていない。はっとして、洗面所に向かった。
静かな間。水の流れる音だけが響く。普段騒がしいぶん、こうも静かだと落ち着かない。誰か早く帰って来ないかなあ。呟き、コップに水を注いだ。捻れば、きゅっと閉まる蛇口。流水の音が消え、再び静まり返る部屋。自分のおこすもの以外に音がしないというのは、どうも落ち着かない。今日何度目かの溜め息とともに顔を上げた。
え。
鏡に映る自分の後ろ、洗濯機の前。黒い影が掠めた。振り返っても何もない。気のせい、かな。首をかしげ、コップに口をつける。ちらり、もう一度鏡を見ても変わったところはない。
思った以上に独りが不安だったのかな。ちょっと考えて恥ずかしくなった。もう高校生なのに。いずれは一人暮らしになるのだから、これくらいは慣れなければ。ぐっ、と左手を握りしめた。
取り敢えず、飲み物が欲しい。キッチンに入り麦茶を入れる。一息ついて、宿題でもしようか。グラスを手に席についた。揺れる水面に氷が涼やかな音をたてる。机上には今朝のまま置かれた雑誌。手に取りパラパラと捲る。
あ、占い、最下位だ。
予想はしていたが、とことんついていない。内容を読む気にはなれず、そのまま次へと進んでいく。その中で、何気なく広げたページにぞくり、肌が粟立った。
アイシャドウの宣伝、その品名の下に描かれた黒猫の瞳と、目が合ったような気がした。なんて、正面向きの絵なんだから当たり前か。思わず苦笑いして雑誌を閉じた。嫌な事が重なったから、過敏になってるんだ。そう思うのに、何故だか鳥肌は治まらない。もう、嫌だなぁ。少し落ち着こうと、グラスを掴む。ぬるり。妙に滑った。沈黙が落ちる。
ふと、正面の収納に目を向けた。僅かな違和感。何かが引っ掛かる。曖昧な感覚でありながら。身の内をぺたりと直接触れられるような冷やかさがあった。こんなにも暑い部屋なのに、何故。喉が渇いて、口内がねばつく。手にした水を口にしたいのに、どうしても腕が動かない。視線も、身体も、思考すら上段の引き出しに縫い止められた様だった。
違う、何かが。
一体、何が。分からない、だが、ここは違うのだ。本能が告げる。ここは、私の家じゃない。家だけど、家じゃない。家具の配置も、間取りも、何一つ変わりはしない。だが、異様で、恐ろしい。
特に、この引き出しが。隙間に覗く暗がりが、洞穴に見えて仕方ない。虚ろであるはずなのに、潜むものがきっとある。
ふいに小さな物音が響いた。瞬間、心臓が大きく跳ねた。ゆらり。揺れたのは、自身の視界か、空間か。
作り物めいた白が闇に浮かんだ。
それは滑らかな動きで縁をつかむ。ほっそりとした中に筋と現れた青い脈が、本物であると示す、真っ白な手首。
徐々に、徐々に這い出して、全体を日に晒したところで、ぼとり。鈍い音をたて床に落ち、踊った。水揚げされた魚のように、ばたりばたりと身を捩り、裏返って。まるで、苦痛を訴えるように。
暴れて、暴れて、急に動きを止めた。無い目と目があった気がした。否、気のせいではなかった。
人差し指がゆっくりと持ち上がる。その指を下ろしたのと、私の膨れ上がった恐怖が弾けるのは同時だった。
白は自分に向かって走りだした。明らかに目的を持って、目指している。何を考えているのか等分からないし、そもそも思考しているのかも分からない。ただ、それは自分に向けられていた。
喉が叫びをあげる。足が走りだす。怖い。怖い。怖い、怖い、怖い、怖い、怖い怖いこわいこわいこわいこわいコワイコワイ。少しでも距離をとらなければ。交互に指を動かして、音をたてながら進む様は、質の悪い玩具にも、足の欠けた蜘蛛にも見える。
嫌だ。なんで。
どうして、こんな目に遭わなきゃ。瞑った目尻を涙が伝った。数秒で着くはずの玄関が、酷く遠い。感覚的なものだけでなく、事実距離が伸びていた。縺れそうな足で駆けて、漸く玄関に辿り着く。急いで鍵を開けようとするのに、震えが邪魔して開けられない。
そうしている間にも、音は近づいてきて。嫌だっ。すぐ後ろに迫った瞬間、身体が外に飛び出した。
開いたっ。
ひとりでに歓声をあげる。正確には、あげようとした。しかし横からの激しい衝撃に、漏れたのは小さな呼吸音だけだった。
何が起きたのか。
全く分からなかった。跳ね上がった身体。逆さまの視界。短い浮遊感を味わって、身体は重力に引き寄せられる。
なんで。
最後に映ったのは、玄関に留まる手首と、その奧に佇む影と笑みだった。
…To be continued.