シツガイキ







昨晩、じぃじがボケた。

お笑い芸人がやる面白い事ならよかったけど、昨日のは全然笑えなかった。

お盆だから家族みんな忙しくしていて、あんまりじぃじのこと見てなかったんだ。

私がオセロを一緒にしたのが、最後の目撃情報だったみたい。

夕方じぃじに負けてから、かき氷をやけ食いしてたら、いつの間にか椅子からいなくなってたんだ。

膝が悪いじぃじは普段めったに歩かないからトイレに行ったんだと思ってたんだけど、夜遅くになってもじぃじは見つからなかった。

お父さんもお母さんも、お盆で帰省していた親戚のおじさん、おばさん、大きい従兄弟とか、ギャーギャー言いながら探し回ったんだ。

私は寝てしまったんだけど、真夜中におまわりさんから電話がきて、大人たちはじぃじを迎えに行ったんだって。

お酒を飲んでたお父さんとおじさんは運転できなかったから、お母さんがしたみたいだけど、「遠かったから疲れた」って朝から何度もお父さんを睨んでいるんだ。

じぃじは、タクシーに乗って故郷の北の方の山向こうに行ったんだ。

お金も持たないで。

きっと「ここは家じゃない。家に帰りたい」って思ったんだよね。

でも、故郷の町に着いてもじぃじの家なんかないし、知り合いだってもういないから、それでタクシーの運転手さんが警察に行ったんだ。

乗せるときにおかしいなって思わなかったのかな?

そこは、私達家族みんなちょっと引っかかってるところだけど、じぃじが無事でよかったって事になっている。

タクシー代が何万円もしたけど。



今朝はみんな遅かったから、私もラジオ体操をサボっちゃった。

ちゃんと早く起きたけど、そんな気分じゃなかったし。

じぃじは、その時間には起きていて、いつものようにテレビの前の椅子に座っていたんだ。

なんだ、いるじゃん。って安心した。

行方不明だったのが嘘みたいに、普通のじぃじ。

みんながブランチを終えてから、ダイニングでは大人の家族会議が始まって、私は居間でじぃじとテレビを見ている。

バラエティ番組の再放送で、クジラのことをやっている。

「大きいなぁ!」と私が思わず口にすると、じぃじも「大きいねぇ」と返してくれる。

クジラは面白かったけど、私は気が気じゃなかった。

だって、ダイニングの声がだだ漏れなんだもん。

「…だから、1回ケアマネージャーさんに生活実態を見てもらって…」

「このままじゃ進むけど、あの性格じゃデイサービスに行きたがらないじゃない…」

「でも医者から診断書もらってないんだろ?」

「…手続きって時間がかかるみたい」

「施設か…」

「…ああいうことが続くと…」

断片的な言葉だし、難しいことはわかんないけど、じぃじに聞かせたくなかった。

テレビのボリュームをもっと大きくして、もっと。

じぃじを振り向くと、眠っていた。

私は大人たちの話が嫌だったから、庭に出た。

することもなかったから、猫よけの粉を芝生にまこうと、物置にとりに行ったんだ。

ふと気配を感じて横を見ると、家の壁とお隣の塀の狭い通路に猫がいた。

そこにはエアコンの室外機があって、その前にゴロリと横たわっているデカイ猫は、お向かいの濱田さんちのヨッシーだった。

室外機の前って、涼しいんだろうか?扇風機みたいに風は出てこないと思うけど。

ちょっと長めのグレーの毛をエアコンからの排水でビチョビチョにしながら、少し間隔の狭い目でこっちを睨んでる。

暑い季節の特等席を守るためなのか、ヨッシーの気迫がこわい。

このヨッシーは、私ん家の庭をトイレにしている迷惑な猫で、じぃじとはライバルだ。

私の靴がうんこまみれになった時、じぃじが仇をとってくれたこともある。

私は握りしめていた猫よけの袋の中に手を入れた。

ザラリとした感触が手のひらに伝わって、手汗で張り付くのがわかった。

その木くずのような粉は、ちょっと香りの強い、やっぱりただの木くずのようで、どうして猫よけの効果があるのかわからなかったけど、これは私の最終兵器だ。

ヨッシーは、視線を私にロックしている。

さあどうしよう。これを掴んで、ヨッシーに投げつけるんだ。

鬼は外!みたいに!

だけど、こわいよ、飛びかかってきたらどうしよう。

握った粉が、指の間にちくちくする。

どうしよう、どうしよう、やらなきゃやられる!

心臓がドキドキして、口の中が乾いて気持ち悪い。

覚悟を決めなきゃ。

袋から握った手を出そうとしたとき、ヨッシーがのっそり立ち上がった。

ふいと私から目をそらすと、ゆっくりとした動作で尻をむけると、壁と塀の間を歩いて、家の壁の角を曲がって消えた。

「おじいちゃん!どうしてこんなに暑いのにエアコン切ってるの!?」

家の中からお母さんの悲鳴みたいな声が聞こえてきた。

なんだ、エアコンが止まって涼しくなくなったからヨッシーは移動したんだ。

私はほっとして、粉のついた手を外の水道で洗った。

そして思った。

ヨッシーの真のライバルはじぃじだけなんだ。

どこにもいかないで、じぃじ。



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