飛行場の見える海辺






幸せになれない恋だから、逃げた。

衝動的に、A4のコピー用紙に書きなぐった退職願を上司の机に放ると、そのままの勢いで空港に向い、国内で一番遠い便に飛び乗った。

機内で、隣の老紳士が不思議そうにしていたが、不躾な視線は向けられなかった。

ひとみは事務服のままで、もっていたのは財布と化粧入れにしている、小さな巾着袋だけだった。

海の際にある滑走路に着陸したのは、夕方だった。

初めて来たその土地は、むっとした空気でひとみを包んだ。

行くあてもなかったので、タクシーに一番近いホテル、と告げた。

タクシーの運転手は、ホテルの名前を言うと車を走らせた。

ひとみはホテルの名前など、どうでも良くて、ただ早く眠りたかった。

空港から近いそのホテルは、小さな島の上に建っていて、その島は海中道路で大きな陸と繋がっている。

丸に近い形の島をぐるりと取り囲んでいるのは、南国特有の海で、観光客にうけそうだ。

幸いにもその時期は閑散期で、ホテルの部屋は沢山空いていた。

ひとみは部屋に入るなり、ベッドに倒れ込んだ。

体は元気でも、心の疲労感が半端じゃなかった。

考えることをやめたひとみの脳は、すぐに眠りの状態に落ちた。



潤一とは、同じ課だったがグループは違っていた。

だから、一緒に仕事をしたことはなく、歓送迎会や打ち上げなどの飲み会の席での彼しか知らなかった。

話が上手く、冗談が好きな潤一と酒を飲むのは楽しくて、気づくとひとみはいつも潤一の隣を陣取っていた。

潤一も満更ではないようで、そんなひとみを社の行事以外にも誘ってくれるようになった。

40を目前にしたひとみには彼氏が無く、他に飲みに行けるような男の友達も無かったから、潤一の誘いに特別な気持ちを抱くのは当然の流れだった。

ふたつ年上の彼は博識で、ひとみを飽きさせることはなかった。

この上ない優しさを持った男性をひとみは他に知らなかった。

理想のひとだった。

左手の指についた、余計なもの以外は。

何度か二人きりで飲みに行くようになり、そのうち体の交渉も持たれるようになった頃から、ひとみは夢をみるようになった。

それはいつも同じで、どこかの診察室で覚悟を決めるという夢だ。

両腕を切断しなければないという夢。

何度もみるその夢は、いつでも新鮮なショックと恐怖とあきらめをひとみに与えた。

毎回、あきらめを感じた瞬間に目覚める。



ごおという、雷にも似た音で目が覚めた。

開け放たれたカーテンからのひかりで、ひとみは朝まで眠っていた事を知った。

あの夢をみなかったのは久しぶりで、少し体が軽くなっていた。

仕事を辞めたからか、遠くまで来たからか。

起き上がり、ベッドの端に座って窓の外を眺めると、飛行場が対岸に見えた。

バルコニーに出てみると、長い滑走路の全体を見ることができた。

外に出ると自衛隊の飛行機が飛び立つ轟音がさらに大きい。

それから暫く、ひとみは旅客機が何機も降りて、飛び立っていくのをただぼうっと見ていた。

双眼鏡が欲しくなった。

双眼鏡で覗いたら、パイロットの顔が見えるだろうか。

地上で働くひとは。

機内の人は。

こんな朝から、見送りの人もいるのだろうか。

管制塔にはどんなひとがいるんだろう。

視線をおろすと、ホテルの駐車場から下に繋がる斜面のむこうに浜辺が見えた。

ひとみは無性に海に入りたくなった。

波打ち際であるはずのところで、ひとみはがっかりした。

遠くからは白い砂浜に見えたが、引き潮の時間帯らしく、波打ち際まで数十メートルがごつごつした珊瑚や岩だった。

海に入りたい。

裸足では怪我をしそうな足元に、仕方なく黒いプレーンのパンプスのまま進んでいく。

岩の窪みにヒールが嵌らないように、爪先だけに体重を乗せて海水に浸かっていくと、やがて膝の深さまできた。

事務服の裾が濡れたことには気をとめない。

ポケットから大事そうに取り出した携帯で、メールを開いた。

彼からの文字を味わうようにして読むと、画面にそっと口づけした。

そして、ゆっくりかがむと携帯を海の水に沈めた。

携帯を海の底に残したまま、ひとみは陸の方へ向きを変えた。

珊瑚礁か岩に躓いて転んだ拍子に膝をしたたかぶつけた。

立ちあがると小さな膝頭から血が流れていて、それは服から滴る海水でオレンジ色に広がった。

ひとみは痛くて泣いた。



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