少年は広いマウンドの真ん中に立って、きゅっとグローブの中に持つ白球に込める力を強める。
そして数メートル離れた場所にどっかりと構える相棒に視線を合わせた。
構えるグローブの下から覗く、サイン。
少年はそれに頷き、帽子を被りなおした。
それからゆっくりと両手を頭上高々と挙げ、大きく振りかぶり、そして。
「ピッチャー瀬野くん、勢い良く投げました!」
マウンドには実況のアナウンサーの声が響き渡った。
同じクラスの瀬野は野球部だ。背番号はエースナンバーの「1」。
時速150キロのストレートを持つ、我が校期待のピッチャーだ。
そんな、瀬野が。
この夏の甲子園に出場する、らしい。
出場が決まった次の日からは学校は毎日がお祭り騒ぎのように彼ら野球部を褒め称え、地方テレビ局が取材の為に来たこともしばしば。
クラスのみんなだって当然大騒ぎして、瀬野をヒーローのように扱った。
それでも瀬野は至って普段どおりで、一番喜んでいるはずの彼が実は一番落ち着いていた。ように私の目には見えた。
「瀬野、初戦の相手は決まったの?」
先生の出張で自習になった4時間目。
みんな自由に立ち歩いて、寝ている人も居れば携帯をいじったり、近くの人と話してる人だっていた。
私は近くに座っていた野球雑誌を読む瀬野に、そう話しかけたのだ。
瀬野は頭を上げ、相手を確認すると少し笑った。
「まだ。今から抽選会だから。ほら、先生出張行ったろ?」
「そう言えば先生って野球部の顧問だったね」
「うん」
「優勝は出来そうですか? 期待のエースくん」
瀬野は「何それ」って笑ってから、手にしていた野球雑誌をぽいと机の上に置いた。
その表紙に居るのは、今やもいうプロ野球界一番のイケメンと持ち上げられる、日本ハムのダルビッシュで、
私もぼんやりと格好いいなと思ってそれを見つめていた。
「取り合えずは初戦突破、だな」
「…ふうん」
「甲子園初出場の俺らがそう簡単に全国の強豪に勝てるわけもねーだろうし」
「…弱気な発言だね」
「でも知ってる?」
「ん?」
瀬野は少し声を小さくした。
「甲子園には魔物がいんだよ」
あまりにも真面目に言う瀬野が面白くて、私は思わず笑った。
「笑ってんじゃねーよ」少し拗ねた瀬野に「ごめん」と謝った。
「…でもほんと、魔物がいんだって」
「どういう意味?」
「何が起こるか分からない、ってこと」
「…」
「7回までボロ負け状態だったとする、でも8回9回で逆転快進撃かもしんねーじゃん」
「そうだね…?」
「野球ってよ、最後まで何が起こるかわかんねーからおもしれーんだよな」
純粋に甲子園球場のマウンドに立つということに夢を馳せていた彼の夢が叶う。
その瞬間に、彼は一体何を思い、何を見て、何をするのだろうと思った。
「だからさ」
「うん」
「見ててな」
「勿論、見るよ」
ふっと笑った、その数週間後。
テレビの向こうで仲間と一緒に行進している瀬野の姿を発見した。
初戦はいきなり前年度準優勝校とだ。
抽選会でそれが分かった瞬間に、学校中は「負けるかもしれない」と怖気付いた。
そんなときでも瀬野はいつも通りに、あの野球雑誌を見ていた。
「初出場の高校ですが、注目選手はどの選手でしょう?」
アナウンサーが解説の人にそう訊ねている。
解説者は「そうですね」と言い資料を見つめ、それから「ああ」と言った。
「やはりエースの瀬野くんでしょう。ストレートの速さは時速150キロなんだとか」
「それで前年準優勝の高校を相手に三振を狙うんでしょうね」
「恐らくそうでしょうね。どんな球を投げるのか、大いに期待です」
解説者とアナウンサーの、資料を見ただけの瀬野についての話が耳を掠めた。
この2人は何も分かっていやしない。瀬野がストレートだけじゃなくて他にもいっぱいの種類を投げれることを。
一回表。相手の攻撃。
バッターボックスに立つのは前回も注目選手として取り上げられていた、3年の人。
瀬野は大きく振りかぶった。
初球、いきなり打たれることがあっては、今後の士気にも繋がる。
そうして投げ出されたボールは綺麗に地面との平行線を保ったまま、キャッチャーの嶋田へ届く。
バットには当たらない。バッターは綺麗なフルスイングだけを見せた。
「瀬野くん、初球はストレートです!」
湧き上がる歓声。テレビ画面の端には瀬野たちの応援団と吹奏楽部が映っていた。
“初戦、もし勝ったら、言いたいことがある”
瀬野が出発前日の壮行式の後、私にそう言ったのが不意に頭を過ぎった。
青春フラグ
序盤は負け気味だったのに後半になって勝ち越すもんだから、瀬野の言う通り甲子園には魔物が居るなって思った。