短めの断片ログ。
*『犬の話』
陽が高い、青草色の午後。
この頃になるとふと思い返す、人の子を超える体躯の、黄色い毛並み。
子供の時分に与えられた物は多かれど、この年になって過去の記憶を引き出す程では無い。
廃されて久しい線路の跡をゆっくりと靴裏がなぞる。良く懐いた、飼い犬の事を思い出す。
かたん。門扉を引く、錠を下ろす、夏のかわいた土を踏む足音に反応。
鎖を限界まで伸ばしてなお此方へ寄る。
何が楽しいのかくるくると走り回る忙しない塊は、名を呼ぶとぴたりと、大人しく伏せた。
その色と同じ日光を吸った頭蓋に手を乗せる。
撫でてほしい、と頭を擦り付けながら、濃茶色の目を細めた。
今少し落ち着きがあったなら、盲導の役をこなしていた筈だと春先に訪ねた犬飼いは言った。
成り損ない。
商品としての格を落とされ、淘汰されたとも気付かず、特別情を掛けるでもない私にこれは本当に良く懐いた。
「君は馬鹿で良かったのだろうね」
わうん!
――意味を理解してはいないのだろう、己に掛けられた言葉に喜ぶだけの生き物。
ただただ人の役に立つことを最上の喜びと考える、実に馬鹿な犬、であった。
*『ジャンクフードについて』
「松永さん、スーパーで買い物したことないの」
ぽつりと落ちた言葉。反射的に身を起こしかけもう一度シーツに沈む。
休日の朝は一層怠い。
思い返せばこのひとが買い物袋を抱えているのを見たことがない。
冷蔵庫には俺が持ち込んだ駄菓子や、ひとくち分減った梅干しなんかが整理されないまま並んでいた。
見た目はきっちり、隙なく暮らしているように見えて、松永さんの食生活は意外な程杜撰だ。
基本的に外食で済ますか、放っておくとコーヒーと煙草の煙しか摂取しない。
余りに食べないので俺のおやつを分けたら、「私は君と違って栄養の要る時期はとうに過ぎている」なんて。
そのひとにしては理論立っていない屁理屈をこねる口に向かってポテトを投げつけてやった。
ジャンクフードが嫌いなのだと知っているけれど。忘食の上偏食だなんてわがままだ。
大人なんだから、心配で、大事な大事な俺の食料あげるんだから、もっとちゃんとしてほしい。
俺のポテトの行方がどうなったかは知らないけれど、その日は特に酷くされた。
理不尽だと思う。
彼は俺の事を、物知らずで馬鹿な子どもだと言うけれど。
スーパーのチラシの価格表記を一桁間違えている、なんて主張するそっちのほうが常識はずれだろ。
*『手のひらと服の話』
白い布を介してしか俺はそのひとの指をしらなかったので、初めて素のそれが触れたときは驚いた。
手袋越しにも判る張った節、俺のそれより幾分かかさついた大人の手が、奥、をさわる。
体温のあることくらい知っていたのに、直に触られる安堵と緊張がぐちゃぐちゃで、ただ涙が出た。
君は泣くか憤るか、どちらかしか知らないのかね。
仕様のない子だ、と信じられないくらい優しく甘ったるい声が落ちる。
本当は甘くなんてないのかもしれない。
それでも優しくされることに慣れていない俺はどうしようもなく、とけてしまいそうに、うれしかった。
軍旗を模した厳めしい上掛けを落としてしまえば、ひとではないものに思えたそのひとも、俺と同じものであったと知る。
さわってもいい。
好きにしたまえ。
恐る恐る、肩口から腰骨にかけて、確かめるように輪郭を撫でた。
冷たい釦も、じゃらじゃらした勲章もない。
少なくとも見た目ばかりはただの男。
知らず落ちた息を、喉のふかいところを擽るように笑う声が拾う。
どこもかしこもふわふわに、このひとでばらばらにされた気分だ。
内側を気をやってしまうほどゆっくりと解されても、まだだらだらと涙腺がこわれたように泣いていた。
足を開きなさい。頬を滑る指の腹に乗った俺の体液が、沁みて、
全部、おんなじものになれた気がした。