雨足は先刻から強くなるばかりだった。これだから梅雨は嫌いなんだ、と座り心地の好い来客用のソファに腰掛けたまま昴は眉を顰める。此処の家主に暇潰しにと借りた本を読もうにも、雨音が煩くて思考を乱されて集中出来ない。湿度も高くて苛々する。けれどそれ以上に此処の主───基、昴の雇主は不機嫌なのだろうと思う。その雇主はと云うと、窓際の室長用の机(彼の定位置らしい)に座り頬杖を突いて居た。激しい雨音に混じって呟きが聴こえる。
「これだから梅雨は嫌いなのだよ…ジメジメジメジメ蛆虫にでもなった気分だ…、っ嗚呼もう聡史!この部屋に乾燥機は無いのかい部屋ごと乾燥させたまえよ!」
「室長ならさっき出て行きましたよ」
遂に我慢の限界が来たのか(元来此の人物は沸点が低いのだ、異常に)机を両掌で叩きながら立ち上がった雇主に、幾らかの皮肉を込めて告げるときょとんと丸い瞳を見開いておや、居たのかいと一言。居たら悪いのかと視線を遣るも我関せずと云った様子で、その幼い顔立ちとは到底結びつかない悪態を低く吐いて紅茶が飲みたい、と言い再度椅子に腰を下ろした。昴は何も言わずにソファから重い腰を上げて簡易キッチンへと向かう。ガスコンロに置きっぱなしのヤカンの湯を沸かし雇主が大層気に入って居るらしいアールグレイで茶を淹れる間終始雇主は無言で、デスクトップのパソコンのディスプレイを見詰めて居た。細められた双眸は眠そうにも見える。角砂糖を詰めた硝子のケースと二つのカップを持って戻ると、それらを受け取りながら雇主は昴、と静かに名を呼ぶ。
「人間の好みとは素晴らしいものだとは思わないかい?」
「……………はあ」
たっぷりと間を開けてから如何にも遣る気無さげに昴は声を発した。また始まった、と心持ち身構える昴とは真逆に雇主は楽しそうに口の端を吊り上げた。
「例えば食べ物に限った話をしよう。此の世の中には最低限甘味、辛味、苦味、酸味が有るだろう。それ以上有ったって僕は知らないよ、僕は美食家じゃないからね」
上機嫌に話し始めた雇主はケースから角砂糖を一つ摘まんで赤みがかった液体に落とす。書き欠けの調査書に跳ねた滴を気にも留めず、ゆらゆらと溶けて往くそれを眺めて居た。
「君にだって嫌いな食べ物くらい有るだろう。そして君は違うかもしれないが、世の中には嫌いで嫌いで仕方無くて、食べられない物が有る人間も居るね?」
「そりゃあ…、それが好き嫌いってもんだろ、」
「そう、それなのだ」
昴の何気無い返答に雇主は指を一本立てて笑った。それを見ながら昴は自分の分の紅茶を静かに啜る。楽しそうな所悪いけど、と。紅茶が冷めると云う事を伝えようとしたがそう云えばこの雇主は猫舌だと思い出し、ぱくり、と意味も無く口を一度開くに終わった。
「だから人間は面白い。肉体に害が無いと脳の方では理解していても、やれ色が嫌だやれ食感が嫌だ等と屁理屈を捏ねながら、その食べ物を体内に入れる事を拒むだろう。否、其の表現は相応しくない。もっと的確に言うならば、人間の思い込みだろうな」
「つまり実際に肉体的への害は無くともそう思い込む事で、体にも異常が現れるってやつか?」
「そうだよ」
君も中々解る様になったじゃないか。雇主はにこりと微笑みを浮かべて昴から視線を外す。机上を本来の色が見えない程に埋め尽くす調査書類を、雇主は何でも無い様にぐしゃぐしゃと荒らしながら、現れた一枚の馬券を取り上げた。聡史──形式上此処の室長だ──の物だろう。先日揚々と見せびらかされたのは、未だ記憶に新しい。
「彼奴も、君くらい賢くなってくれればこれ程苦労はしないのに」
何時の間にか雇主の声音は最初の不機嫌なそれに戻っていて、梅雨のストレスを容赦無く紙切れにぶつけた。
「っ、ちょ。良いのかよそれ、室長の、」
「こんな所に置いておく彼奴が悪いのだよ」
散々になった馬券をゴミ箱に放り込んで幾らか気分が晴れたのか、深く深く溜め息を吐いて、軋む音を立てながら背凭れに体重を預ける。カップが雇主の手に移るのを確認し、昴も残った紅茶を一息で飲み干した。そしてすっかり湯気も落ち着いた紅茶を啜る雇主を後目に、自分の横に置いた本を持ち上げる。『数学パズル百選』───聞く所に寄ると此処の室長が昴の雇主の為に買って来た本らしいのだが、昴より遥かに論理的思考力に長けている雇主は直ぐに全てを解き明かしてしまったと云う。暇潰しに借りてみたは良いが如何せん、昴は根っからの文系だ。思考した所で答えは得られず、況してや面白味なんてものは微塵も感じられなかった。
「なあ。これ解けるか?」
「僕に数式で挑もうなんて100年早いね」
昴に視線も遣らず、雇主は間髪入れずに応える。見ればその口元には不敵な笑みが湛えられていて、机に頬杖を突いたまま雇主は嘯いた。
「僕は万能な人間じゃあないが、それは既に死んだ命題だ。───貸したまえ昴。君にも解る様に優しく証明してやろう」
「は、…室長達が帰って来るまでな、鳴海」
生きた死んだなどと言いつつも、思考している間の雇主───鳴海は無条件に上機嫌なのだ。彼を宥められる彼等が帰る迄は恐らく、これで凌げるだろう。
雨は未だ強く窓を叩いた。長く続くであろう梅雨は、同様に終わりを見せない。
-----→to be continue ..