私が“彼”に出会ったのは、たった数分前のこと。
廃れたバーのカウンターが、全ての始まりだった。
1番奥の席に座り、1人静かにグラスを傾けるその姿は、まるで幽霊の様。
誰よりも目を引く整った外見をしているくせに、誰よりも存在感が無い。影が薄いというよりは、自ら息を潜めている。
では何故私が彼に気付けたのかといえば、何のことはない。彼が、私を見ていたからだ。
それは一瞬よりも短く。
刹那と言っても過言ではない。
彼は暖炉の底の残り火に似た緋色の瞳を以って私を視界に捉え、からりと氷が音を立てるのと同時に、何事もなく視線を逸らした。
黒いコートの裾から覗く、白い指先が、文字通り片手間にグラスを揺らす。それから、緩慢な動作で口元まで持ち上げて。
少しだけ上向いた喉が、小さく上下する。
その1連の仕草に思わず見入ってしまった、否、見惚れてしまっていた私は、バーテンダーが席を勧める声すら、聞こえていなかった。
現在。
偶然か、或いは運命か。
案内されたのは、彼の二つ隣の席だった。
私は年老いたバーテンダーにソルティードッグを一つ頼み、横目で件の彼を伺う。こういったバーに相応しい、気品漂う青年である。名家のご子息だったりするのだろうかーー?“Note.”で名家といえば数奇家だが、しかし彼の髪は瞳と揃いの赤色をしている。
ついでに私はさりげなく彼の左手の方まで視線を泳がし、そこに“腕章”が無いのを確認した。そちら方面の権力者ということも、なさそうだ。
恭しく目の前に置かれたグラスに口を付ければ、慣れ親しんだ味が舌を滑る。相変わらず腕の良いことで、大変結構。此処に通うようになって数年が経つが、この店で出てくる酒はいつも安定して美味い。此処の、忠実過ぎる程にレシピに従う、裏を返せば遊びの無いカクテルを私は大層好んでいた。
さてーーーーーー。
いつもなら静かな店内に倣い黙って至福の時を甘受する、というのが私の呑み方なのだけれど、いかんせん今日は隣の彼に目がいってしまってままならない。全く、好奇心とは恐ろしい。そんなことわざがあった気もするけれど。
いつから呑んでいるのだろうか。あまり酔っているようには感じられないが、なかなかのペースで呑んでいるようにも見える。やや気怠そうな様子ではあるものの、それが酔いの証なのか彼のニュートラルテンションなのかを計る術は無かった。
最初の一度以来、彼はちらりとも私を見なかった。ただ一定のペースでグラスを傾けているだけで、何か言葉を発することもない。私の視線に気づいていないのか、気づいた上で無視をしているのかは定かではない。しかしこの容姿、この雰囲気だ。他者から向けられる視線には慣れていることだろう。誤魔化すように私はグラスを持ち上げて、そこで既に中身を飲み干してしまっていたことに気がついた。少し迷って、同じカクテルをオーダーする。指先にわずかについた塩を紙ナプキンの上で払い、ついでに腕時計を確かめる。金の短針が、既にてっぺんを回っていた。
バーテンダーは私にオーダー通りのカクテルを差し出し、恭しく頭を下げるとその足で彼の正面へ向かった。伏し目がちにどこか遠くを眺めていた緋色が戻ってきて、再び氷が音を立てる。彼のグラスも、いつの間にか空になっていた。
「そろそろ、お時間ですが」
柔和な笑みを貼り付けたバーテンダーがそう告げると、彼は小さくうなづいた。うなづいて、頬杖をつき、「じゃあこれで最後」と。
「ブラッディメアリー」
かしこまりました、と一礼して、バーテンダーはカウンターの奥へと消えた。店内は静まり返り、誰の気配も感じない。まるで世界に取り残されたようなーー私と彼だけが、存在を許されているような。
瞬間、私は背後を振り返った。そこには誰もいない。そう、少ないながらも確かに居たはずの客たちが、ただの1人も存在しない。
反射的に背広の内ポケットに手を差し入れ、それを振り抜きながら眼前の青年の肩を掴む。退屈そうに此方を見たその緋色の眼球を目掛け、私は切っ先を躍らせてーーーー
しっかりと握りしめたナイフの柄が嘘のように消え失せたその感覚に、思わず目を見開いた。
「初めまして、レディ。血塗れの淑女、“目隠しの釘打ち”さん」
彼は、未だ席に座ったままだ。両手を伸ばしたとて届かない距離で、私を“私の名前”で呼んでみせる。あぁやはり、彼はそちら側の人間だったのだ。どうして気がつかなかった?左手の腕章が、いいえそうではなく。
今宵は随分と、目を惹かれる夜だったのだ。
「先週の月曜、赤い目の子供を取り逃がしたと聞いていたからね。そろそろ“欲しくなってくる頃”だと思っていたのだけれど、」
そう。そうだった。
あの夜見かけた赤と青の目を持つ子供。
私の両手をすり抜けたあの赤が、どうしても、どうしても欲しかった。“書架に潜む悪魔”の知り合いだというから手を出すことは出来ないと知って、だから代わりを探していたのだ。赤を、緋を抉り出して、
「そこに釘を打って見たかった?」
錆に塗れた古い釘を、そのがらんどうな眼孔に打ち込んで。私の手の中に収まった赤色を眺めていれば、きっと満たされると思っていた。今まで青や緑や黒や茶色や黄色や桃色や紫色の眼球を用いてそうしたように、そうして渇きを癒したように。
私は隣の椅子の上に膝を乗せて、手持ち無沙汰な右手で彼の胸元を掴んだ。力任せに引き寄せて、ナイフの無い左手の、人差し指の爪を彼の瞳目掛けて突き下ろす。あれだけ焦がれた赤色が、目を奪われた緋色がそこにあるのだから。
すると、彼は笑った。
悪魔にも似た綺麗な笑顔で私を嗤う。
次に視界を埋めたのは、彼の鮮やかな緋色ではなく、私が1番嫌いな赤い色。
纏わり付いて、絡みついて離れない、忌々しい鮮血の色だった。
「ーーーーお疲れ様。上出来だったよ」
彼がネクタイを緩めながら頭上に向かって呟くと、音も無く天井の一角が外れた。次の瞬間、黒いマントの人影がその隙間から飛び降りてくる。とん、と軽い仕草で着地して、人影は片手で自身のフードを剥いだ。
晒された白い髪を揺らして、その少年は不満そうな声を漏らす。
「それはいいですけど、ああいうわかりにくい合図やめてもらえます?もう少しで赤ペンキぶちまけるとこだったんですよ」
「わかりにくかったかどうかはともかく、どうして赤いペンキを持っていたのかと何故それをぶちまけるという発想に至ったのかは後で聞かせて貰おうかな。事と次第によっては再教育しなくちゃいけないしね」
「うわ墓穴掘った」
彼はコートのポケットから赤と金の腕章を取り出し、慣れた手つきでそれを左腕に嵌めた。二の腕の下の方で固定すると小さく欠伸を漏らして、それから手の甲で口元を隠す。
「……眠い」
「大して強くないのにあんな量呑むから。ーーとはいえ度数低いのばっかでしたけど、よくあれで酔えますね」
「うるさいよ」
そんな彼を横目に少年は地面に伏した女性が死んでいることを確かめると、彼女の背中に突き刺さったままのナイフを引き抜いた。噴き出した血が飛び散った頬を乱暴に拭い、そしてカウンターの裏からビニールシートを引きずり出してくる。遺体の上にそれを被せ、血塗れのナイフをタオルでしっかりとくるむと、少年はカウンターの上に腰かけた。マントの裾が広がって僅かに見えた細い左腕に、腕章は無い。
「というか、別にあんたが出る必要なかったでしょう。カラコン入れたら囮ぐらい誰にでも出来たんじゃ……」
「ルカは未成年だし、琴巴だと店ごと崩壊させかねない。他の幹部も今は中央を離れているし、陸やお前は中身はともかく見た目は子どもだから目立つだろう。……そもそも幹部連中は顔知られ過ぎてて囮には向かないよ。とはいえ下っ端を使えば必然的に作戦の規模は大きくなる。僕が出るのが1番早いんだよ」
「あぁ……それもそうか。有名人ばっかだしなぁ」
「ほら、行くよ。“R.C.S.”の性質上、殺人鬼は1人殺せば次が出てくる。その前に合流しよう」
「死体は?」
「その内【影】や【裏】が処理するだろうから放置でいい」
「了解」
彼は革靴で血溜まりを踏みつけて、店の入り口へ歩みを進めた。少年がカウンターから飛び降り、それに続く。そうして店のドアを開けたところで、奥に消えていたバーテンダーがーーーー先程まではバーテンダーだった男が、顔を覗かせた。
男は相変わらずの柔和な笑顔で、右手を胸元に添えると腰を折る。
「またのご利用をお待ちしております、“不知火様”」
彼は振り返らなかった。
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