雨が降っている。

雑多な街並みが淡く滲んで、周囲の喧騒が遠くなる。
その感覚が、命は嫌いではなかった。
黒い傘を肩に預けるようにして差しながら、彼は水たまりを跳ね上げて歩く。そして人気の無い道まで進んだところで、ふわりと香った血液の匂いに少しだけ眉を顰めた。

「……、」

彼にとって人の死はそう特別なものではない。
“Note.”に堕ちる前、数え切れない程の戦場に立ち続けていた彼は、人が死ぬ瞬間を日常的に見ていた。溢れる血の温かさにも、耳を劈く悲鳴にも、なんの感慨も湧かないくらいには。
だから彼は特段躊躇いもせずに匂いの元へ足を向けた。歩を進めるリズムは、今までとそう変わらない。表通りを逸れ、人混みを掻き分けて横道に入る。湿ったアスファルトに僅かに目を細めた彼は、ゆらりと傘を傾けた。
広がった視界の先には、真っ赤な雨を頭から浴びた少年がぼんやりと立ちすくんでいる。

「……トーマ」

静かな、静かな声が少年の名を呼ぶ。
少年は虚ろな目で振り返ると、その双眸に彼の灰色を捉えた途端薄く嗤った。
額に張り付いた髪を払うこともなく、ただゆったりと口角を上げーーーー

「……っははは、は、」

左手で背を握った分厚い本を、力任せに、彼へと向かって振り上げる。

水滴を弾く黒塗りの傘が、重力に従って水溜りに落ちた。



銀の切っ先が、空を裂く。

雨粒さえ斬り伏せるほど研ぎ澄まされた刃は終ぞ少年の血を浴びることはなく、峰の腹辺りで少年の“行為”を払った後は、役目を果たし終えたかのように淡々と鞘に収まった。
命は慣れた手つきで愛刀をコートの内側へと仕舞い、その掌から一瞬で消え去ったのを確認してため息を一つ零す。そうしてようやく、地べたに座り込んだ少年に空いた片手を差し出した。
手首から先を包む黒い布が次第に水を含んで湿っていくのを気だるそうに眺めた少年は、ふと視線を上げて「汚れるぞ」と呟く。それに彼が「今更だろ」と返せば、少年は大人しく目の前の彼が無防備に晒した手を取った。
よ、っという掛け声と同じくらい軽い動作で立ち上がり、色々なもので薄汚れたズボンを払う。土埃はすぐに落ちたが、べっとりと絡みついた血液は重くのしかかったまま全く落ちる気配はない。少年はその様に小さく舌打ちを漏らして、水溜りに落下した本を拾った。濡れて一つ一つのページが引っ付いたそれを、もう二度と彼が読むことは無い。

「あーあ、また駄目になった」
「今回はなんだ」
「『絵の具で世界を塗り替える君のインクは真っ白だ』」
「あぁ……去年の本屋大賞だったか」
「ん、言う程面白くはなかったんだけどなぁ?ついこの間予備も駄目にしたばっかりなんだよ。なんか損した気分。結局ラストまで読めてねぇ」
「最近、雨が続くからな」
「ほんとだよ。もうちょっと太陽仕事しろよな」
「あの恒星“太陽”っていうのか?」
「さぁなー?まぁ、昼間昇る恒星は大体何処でも“太陽”だろ」
「確かに。俺の世界でも“太陽”だった」
「おれの世界でも“太陽”だった。別名とか、他の呼び方もあるにはあったけど」

先ほどよりはいくらかまともになった薄翠色の瞳を伏せ、少年はふるふると犬の様に体を震わせて水滴を左右に飛ばす。それを横目に彼は地面へ手を伸ばし、拾い上げた傘を少年の頭上に差した。少年は黙ってそれを甘受しつつ、足元に転がる死体の腕を爪先で壁際へ寄せる。

「死者は丁重に扱えよ、殺人鬼」
「お前が言うか、英雄王」
「……社長に告げ口してやろうか」
「……それはずるくねぇ……?」

仕方ねぇなぁ、と一言。
少年はその場にしゃがみ込むと、おざなりに両手を合わせた。小さな背中をずれた鞄のベルトが滑り、首に引っかかってだらんと揺れる。

「じゃあ、来世ではせいぜい良い行いをして下さいってことで。なーむー」
「……一回呪われればいいのに」
「大丈夫おれ原作だと10人ちょっとしか殺してないから」
「大概だろ」

「で、お前はこんなとこで何してんの?」

近くにあった備え付けのゴミバケツに汚れた本を放り捨て、少年は彼を振り返った。
視線を受けた命は少し考え込むように目を伏せ、それから「ああ、」と小さな声を漏らす。

「夕飯の買い出し」
「え、何、これから?」
「これから。……だからまぁ、先に帰っててくれ」
「あー……さすがにこの格好でうろつくのはなぁ」
「ん。最近は、軍警の巡回も厳しいしな。ああでも、ちゃんと事務所には裏口から入れよ。精神教育上良くない」
「朔夜の?つっても、あいつ元々そんなまともな神経してなくねぇ?」
「それはそうだけれど、わざわざ悪化させることもないだろ」
「りょーかい」

少年は傘の柄を彼の方へ押し返すと、雨空の下へと歩み出た。ジャケットのポケットに両手を入れ、すたすたと路地の奥へ進んで行く。そうして角を曲がる直前、一瞬だけ立ち止まり、

「ありがとな、命」


「……、」

一人裏路地に残った命は、くるりと踵を返すと、元の表通りに向かって歩き出した。その足取りは、まるで何事もなかったかのように穏やかなものだった。

雨が降っている。






「そういえばお前あの本読んだことあんの?」
「一応な。居間に置きっ放しだったから」
「へぇ……あ、じゃああれラストどうなんの?知ってんだろ?」
「主人公がヒロイン殺して、その後ヒロインの相手も殺して逮捕される。で、終わり」
「……うわぁ」




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