少しだけ、前の話。
光の届かない土の下で、ぼくは息をしていた。
乾いた血と腐った人間の臭い。目の前に転がっている同族が生きているのか死んでいるのかも定かではないこの状況だって、もう慣れたもので。
何の感慨も湧かなかったーー悲しいとすら思わない。
心臓の奥でぐるぐる渦巻いているのは、悲哀なんかよりもっとどろどろして、汚らしい感情だったから。
いつも膝を抱えて、目を閉じて耳を塞いで、誰にも気付かれないように生きていた。頭の中だけが自由だ。何を思っても何を考えても、表情に出さなければ。言葉にさえしなければ、殴られたり蹴られたりすることもない。心を殺して本当の道具のようになるよりは、ひたすら口を閉ざしている方がずっと良い。
何度も、何度も殺した。下卑た笑いを浮かべる“お客様たち”を、毎日同族を殺していく“ご主人様”を、頭の中で何度も殺す。別にそれで救われる訳じゃないってわかっていたけれど、持て余した感情を外に出さないように、何度も何度も何度も何度も繰り返す。

「もしも」

「もしもその手にナイフがあれば、お前は彼らを殺すのか?」

ある日現れたお客の1人が、ぼくに向かってそう言った。こんな掃き溜めには似つかわしくない、綺麗な綺麗な人だった。薄い藍色の髪に、考えの読めない紫の目。檻の前にしゃがみ込んだ彼は、正面からぼくを見据えている。ぼくは少し迷って、ゆっくり口を開いた。しばらく声なんて出していなかったから、掠れて聞き取りずらかっただろうけれど。

「殺さない」
「何故?あいつらが憎いんだろう」

憎い。
ぼくはあいつらが憎いんだろうか。
そんなこと、考えたことがない。
無駄なことは
ーー何一つ考えないようにしていたから。

「感情に名前をつけろ」

彼は言う。
淡々と、当たり前の様に。

「全ての現象には名前をつけなければならない。言葉は大切だ。無駄遣いするな。幾多の言葉から一つを選びそれを呼ぶことで、人は初めてその現象を認識できる。遥か昔何処かの誰かが、エピローグの先にあるこの世界を“Notebook.”と名付けたように」

ぼくは答えた。

「だってぼくにも名前はない」
「そうか。なら俺がお前に名前をやろう」
「そのことになんの意味があるの?」
「お前は“お前”を理解し、俺は俺の仲間に“お前”を説明しやすくなる。意味はあるさ、全ての言葉には意味がある。意味があるからーー“言葉”と云う」

檻の隙間から伸ばされた両の掌が、ぼくの顔を挟む。そのまま、乱暴に引き寄せられた。じろじろと見つめられて居心地が悪い。
静止したまま、数秒。
それから突然手を離されて、ぼくは思わず距離をとった。
そうして気付く。長年繋がれた首輪が、外れていることに。いつの間に、と彼を見れば、彼は顎に手を当てて考え込むように目を伏せている。

「ふむ。題名を付けるのとは少し勝手が違うからな……名は体を表すと言うし、体を表した名にするべきだろうな」

多分そういうことじゃない、とは思ったけれど、黙っておいた。

「……お前の目の色が、なんと言う色か知っているか」

少しして、顔を上げた彼が唐突に問うた。
わからないから、わからないと答える。すると彼は満足そうにーーいや殆ど変化はないけれど、雰囲気だけ満足そうに、こう言った。

「右目が茜、左が群青。茜といえば夕日、群青といえば有明の色だ。ならばその間である“夜”という漢字を使わないのは冒涜だな。言葉に対する冒涜だ。では夜、夜としてーーああ丁度良く夜空に似た髪色だ。都合が良い。月明かりの無い夜、朔の夜。うん、これで一作書けそうだ」

「朔夜」

「今後お前を、朔夜と呼ぼう。お前が名乗ろうが名乗るまいがどうでも良いが、告げる名が無いなら使え」

さく、や。声に出してみれば、随分簡単な響きだった。自分の名前があるのは初めてで、だから自分の名前を呼んだのも、当然初めてで。何より驚いたのは、この得体の知れない男の言うことを、心の何処かで素直に信じてしまっていることだった。そういえば、さっきから長い間喋っている。どんな思いも言葉にしないと、決めていたはずなのに。
呆然としているぼくを他所に彼は立ち上がって、がちゃん、と檻を開けた。鍵は、確かに掛かっていたのに。一瞬だけ疑問に思ったけれど、彼の指先がくるくると回しているのが“ご主人様”の持っていた鍵束だと気付いてから考えるのをやめた。無駄なことは、考えない。

「いきなりで悪いんだが、今からお前を追い出す。金や住居が必要なら手配するし、仕事が欲しいなら紹介してやる……せめてもの、謝罪だ」
「……なんで」
「あいつらに服従するというお前の仕事を奪い、檻の中というお前の住居を破壊する。そのアフターケアだ。仕事の一環ともいう。……善意や正義感は期待するな。生憎、俺たちは悪役だから」

それとも、お前が正義の味方になってみるか?
その場合お前の“ご主人様”を殺した俺たちをなんとかするのが、最初の使命になるだろうけれど。

なんて言っておきながら、差し出された右手にはたった一つの警戒すらも乗っていなくて。言葉とは真逆なその態度になんだか馬鹿らしくなったぼくは、いつの間にか、彼の手を取っていた。



ーーーーこれが、ぼくにとってのプロローグ。
彼の部下にーー探偵社の一員になる前の、比較的どうでも良い話。

本当の第1話は、今から更に二年先だ。
エンディングを迎えた物語が集結する、文字通りの「終わった世界」。通称“Note.”を舞台においた、一度終わった住人たちの、誰の目にも止まらない物語。

そういう話を、語ろうと思う。




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